2012年6月26日火曜日

楽譜(2)

昔、マーシャル・マクルーハンの「メディア論 人間の拡張の諸相」(みすず書房)を読んだことがある。細かくは覚えていないし、内容に踏み込むほど読解していないが、本棚に残っていたのでざっと眺めてみた。貨幣から印刷、新聞、広告、ゲーム、映画、ラジオ、テレビ、果ては兵器まで、この世のメディアを論じている。なかでも私が印象的だったのは、ラジオは「熱いメディア」でテレビは「冷たいメディア」だと論じている点。その意味するところは、繰り返すが読解力が及ばないので語らない。

さて本稿の「楽譜」についてだが、マクルーハンは音楽についても論じている。「蓄音機」という章があるので、ざっと読んでみた。蓄音機、LP、テープレコーダーというメディアが引き起こした革命を論じている。「十六世紀にはじめて楽譜が印刷されて以来、ことばと音楽は分離することになった。」「ジャズが機械的なものと手を切って、非連続的、参加的、自発的、即興的なものの方へ歩み寄るものと考えられるなら、それはまた、行為し演ずることがすなわち創造であり創作でもあるような、一種の口踊詩への回帰とみなすことができる。」と述べている。なるほど読解はできないながら、なんとなく言わんとしていることはわかる、ような。

私の好きなジャズ・ギタリストWes Montgomeryは楽譜が読めなかったという。その真偽はともかく、あの唄うようなプレイを楽譜に書き落としても、それをもって再現するのは無理なハナシだ。演ずることで創造し創作しているWes Montgomery自身にもそれを再現できないだろうし、しないだろう。マクルーハンは「レコードになったジャズを『昨日の新聞のように古くさい』と言えば、ジャズメンの間では、分かりきったことを言うなと馬鹿にされる。」と書いている。しかし単なるギター好きな私はその再現(真似)をしたくなるので、その瞬間のプレイを現代の我々が耳にすることができるのは、なるほど蓄音機サマサマだ、と思うのであった。

ところで例のバンドはスタジオに入って、いくつかの曲を楽しんだ。私はDesperadoピアノの練習しかして行かなかったので、他の曲は持ち寄った楽譜を見ながら演奏した。原曲もよく聞かないまま楽譜をなぞりながら弾いて、歌い、叩いた。それはそれでその程度なりにその場では成り立ったのだから、なるほど楽譜サマサマだ、と思うのであった。でも次回は曲をiPadで聴いて耳コピしてホンモノに近づこうと、(今のところ)決意している。

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