2013年5月29日水曜日

政治はなぜ嫌われるのか(1)―「茶の間の正義」

もう20年以上前であろう、テレビ朝日系の「ニュースステーション」という報道番組で、小学生へのインタビューを放送していた。インタビュアーの問いかけは忘れたが、「政治家がバカだから」というその男の子のコメントに強い違和感を感じたのを憶えている。ニュースの中身としては政治(家)を非難する内容だったのだろうが、小学生に小学校の教室でコメントをとって顔出しで放送するという違和感、と同時に、そのコメントを発する彼への違和感を覚えた。家のなかで、テレビや新聞を見聞きしながら「政治家はバカだ」という類のコメントを親が発しているのだろう、と思うと、当時おそらく大学生だった私はなんとはなしに暗い気持ちを抱いたのである。

時を経て、山本夏彦の「茶の間の正義」(中公文庫)という本に出会った。冒頭のコラム「はたして代議士は犬畜生か」はこう始まる。
―テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。私はそれを「茶の間の正義」と呼んでいる。眉ツバものの、うさん臭い正義のことである。―
そしてこうも言う。
―茶の間の怒り、茶の間の涙、茶の間の笑い―茶の間の○○の悉くはこの仲間で、真実誰も怒ってはいない、泣いてはいない、笑ってはいないと私は見ている。あれは「押すとあん出る」のたぐいである。―
―老いも若きもフヌケである。革命の気力はみじんもないと見くびって、ジャーナリズムはこのなん十年、茶の間の正論を吐き続けてきた。この手の修身から何が生まれるか。
 怒ったふりが生まれる。泣きまねが生まれる。その他もろもろの「押すとあんが出る」が生まれる。それだけで、おしまいである。
 泡鳴のまねして言えば、その怒りは、その涙はウソである。浪花節である。浪花節は戦後もっとも軽蔑されているが、なに、依然としてわが国を覆っている。「官」は常に悪玉で、「民」は常に善玉ではないか。―
これが書かれたのは私が生まれる前、佐藤栄作が総理大臣だった頃のようだ。

さて、421日(日)の読売新聞朝刊1・2面に、青山学院大学特任教授で経済学者の猪木武徳氏の文章が掲載されていた。WTOや地域貿易協定を扱った内容だったが、そのなかの以下の一文に私は目を引かれた。
―デモクラシーの下では、人は似たような条件で、似たようなことをしている。したがって、自分とさして変わらないように見えるリーダーそのものへの畏敬や恭順の気持ちは一般に薄くなる。「自分と大して違わない人間が、自分に指示することに我慢がならない」と感じる者が増えるのだ。したがって、デモクラシーの国民は一般に「リードされる」ことには不得手になる。―
少し前、テレビや新聞が、「リーダーシップ」とか「決められる(ない)政治」などと言い立てていたのを思い出す。

また、読売新聞が423日(火)に、国会議員の定数削減に関する試算を掲載している。定数削減による弊害が大きいという試算を踏まえ、「『身を切る』は大衆迎合」と題した論評ではこのように言う。
―国民に増税をお願いする以上、国会議員も「身を切る改革」が必要だ―という言い方は、確かに聞こえがよい。(中略)そんな国民の歓心を買おうと、まるでバナナのたたき売りのように、各党は「わが党の主張は80削減だ」「うちは180減の定数300だ」などと削減数を競い、今日の《定数削減=善》という風潮を生むに至っている。(中略)定数削減の“陰”については口をつぐみ、「身を切る」のスローガンだけを口にするのは、ポピュリズム(大衆迎合主義)である。―
その主張そのものについて語る資格は私にはないが、風潮を生むに至っているには苦笑させられる。

再び、山本夏彦の「はたして代議士は犬畜生か」から引用する。
―自分はアプレのままでいて、為政者だけに、金もいらぬ、名もいらぬ、命もいらぬ、まるで西郷隆盛みたいな大人物であれという。その手前勝手に皆さん気がつかないのは、かさねて言うが、根底に嫉妬心があるせいである。彼らの月収が三~六万とすれば、手当を加算した議員の四十万円前後の金は、驚くべきかつ憎むべき月収なのである。
 だから新聞で「議員又々お手盛りで歳費を値上げ」と読むと、柳眉をさかだてる。自分であげるとは何事か、その金は我々の血税だと悲憤慷慨するが、私はしない。
 私はこの記事を、五十年前にも読んだ。十年前にも読んだ。五年後にも、十年後にも読むであろう。―
(続く)

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