2013年6月13日木曜日

政治はなぜ嫌われるのか(3)―予防性の原則

前回紹介した「政治はなぜ嫌われるのか 民主主義の取り戻し方」コリン・ヘイ(吉田 徹 訳)(岩波書店)では、現代先進民主主義国に多くみられる政治に対する「幻滅と白け」の原因が、1980年代からこれらの国々で知的潮流として力を得た「公共選択論」の理論群に求められることを見た。著者は、つまり「犯人」を公共選択論であると断定しているようではあるが、しかし本当の犯人は我々自身なのだ、と言う。私は本書の深い問題提起はここにあるように思われた。

再度いくつか引用したい。
―それだけでなく、国家の公共財を提供する能力までも破壊してしまう危険性もある。ある医者が患者を治療するとして、目の前の患者を病院のパフォーマンス指標を改善する対象としてしかみなさないのであれば、彼は公共善を提供したことにはならない。このようなインセンティヴ付与と合理化のプロセスによる深刻な副作用は他にもある。それは、福祉を供給する側は常に間違った判断をすると国家の側が不信を募らせて、公共部門のパフォーマンス指標を満たすことだけを考えて機能する場合、そうした思考が他の領域へと伝播していくことである。すわわち、それまで信頼に基づいた関係は契約的なものへと置き換えられていくことになるのである。公共善のうち、確かに信頼はもっとも脆弱なものかもしれない。それゆえにもっとも尊いものであるにもかかわらず、である。―
―政治とは社会的な活動のことである、その他の多くの社会的活動と同様に、それは協働と信頼があって初めて上手く行く。もし私たちが他者は信頼できないと考え、あるいは、まず彼らの方が信頼に値する人間だと証明しなければならない(これが予防性の原則である)と考えるのであれば、私たちは討議と協働、そして集合財を備える可能性を予め排除してしまっていることになる。つまり、私たちは政治を否定することになるのだ。―
―政治が、私たちの他者を信頼する能力に依存しており、そして現代社会ではそのような信頼が極めて脆く、少なく、限られたものであり、さらにそれが道具主義的で自己利益的な人間観の影響によるものだとすれば、政治分析にとってこれほど重要な問題はないということになる。これは喫緊の課題である。それも政治が完全に脱政治化されて、分析するものが何もなくなってしまう前に、である。―

これらで頻繁に出てくる言葉が「信頼」である。とくに私が注目したのが「もし私たちが他者は信頼できないと考え、あるいは、まず彼らの方が信頼に値する人間だと証明しなければならない(これが予防性の原則である)と考えるのであれば」という一文である。「予防性の原則」の原語(英語)が何かわからないが、この日本語の用法はあまり馴染みがない。とはいえ、言いたいことはなんとなく、私の理解では、日常の出来事から私が日々感じていることと同じ、なのかなと思える(違うかな)。

大変卑近な例でいえば、「横柄な客(こっちはお客様だぞ)」というのはこれなんじゃないだろうか。つまり「お前の方が○○しろよ」的な立ち位置を求める態度ではないだろうか。意識的にか無意識的にかは別にしてであるが、無意識にそうなっちゃっているのではよりタチが悪い。政治家にとって有権者は「お客様」である。茶の間では「バカだフヌケだ身を切れ」と言われ、一方ではポピュリズムだといって叱られる。バスの運転手からすれば乗客はお客様で、横柄な客に「早よ行かんかい」などと言われっぱなしではストレスが溜まるだろう(以前のブログ「お年寄り階級」参照)。当然逆もある。「オレは政治家だ」「オレはバスのハンドルを握っているんだからお前の命はオレが握っている」でもダメだ。いずれにせよ「私はあなたから○○してもらって当然だ」という関わり方では、信頼は生まれないだろう、と本書の核心はここにあるように思える。

…よくわからなくなったので、ゲーテの言葉を「ゲーテ格言集」(高橋健二 編訳・新潮文庫)から引用してごまかして終わる。
卑怯者は、安全な時だけ、威たけ高になる。―

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