2013年8月17日土曜日

「市場と権力」

最近読んだ本を紹介したい。

「市場と権力 『改革』に憑かれた経済学者の肖像」 佐々木実(講談社)。本の帯には「経済学者、国会議員、企業経営者の顔を使い分け、“外圧”を利用して郵政民営化など『改革』路線を推し進めた竹中平蔵がつぎに狙うものは!? 8年におよぶ丹念な取材があぶり出す渾身の社会派ノンフィクション!」とある。著者は、日本経済新聞社を経て、現在はフリーランスのジャーナリストである。

著者は「あとがき」でこう述べている。「ひとりの人物に焦点をあて彼の人生を描き切るのが人物評伝なのだとしたら、私が取り組んでいるのは別種のものなのかもしれない。疑問というほどではないけれどもそんな戸惑いが頭をもたげたのは、取材をはじめてすでにかなり時間がたってからだった。いま冷静にふりかえれば、私は、竹中平蔵氏を通じて“あるもの”を突きとめようとしていたような気がする。」ここでいう“あるもの”がなにか、著者は明確な言葉では述べていないが、本書のタイトルに「竹中平蔵」と明示されていないのはそのせいではないだろうか。とまれ、本書は竹中平蔵氏の評伝にとどまらず、「構造改革」路線とはどのようなものだったのか、それを主導したひとりである竹中氏のバックボーンに迫りながらあぶり出す形となっている。

いくつか引用する。
―のちに竹中が大蔵省に出向したときの上司でよき理解者ともなる経済学者の吉田和男は、竹中の研究者としての骨格はアメリカでつくられたのではないかという感想をもっていた。
 「どのような時期にアメリカにいたかですよね。これは竹中さんに限りませんけど、日本の経済学者はどの時期にアメリカに行ったかで決まるところがある。竹中さんが行った時期は、純粋なケインジアンにはお年寄りが多く、若い人はそういう立場に異議を唱えていた。やはり経済学者は一番勉強をしていた時期に影響を受けるから」―
―「経済学」とはどのような学問なのか―慶大助教授になったばかりのころ、竹中は雑誌の対談で語っている。経済誌『エコノミスト』一九九一年八月二〇日号で、対談相手は京都大学経済研究所長をしていた佐和隆光である。この対談で、佐和は経済学者の「世代論」を論じている。
 「(中略)一九七九年にフリードマンが『選択の自由』という本を書いたのですが、あのなかで潮の流れが変わりはじめた、まさに自分にとって追い風が吹くようになったと言っている。そういう意味で、一九七九年前後は、まさに経済学が怒涛のごとくケインズ主義からマネタリズム、あるいは反ケインズ主義の方向に変わった時期にあたる。
(中略)日本の経済学者も大部分は、思想構造にまでコミットすることなく、経済学をやっている。したがって、ケインズの経済学がだめになった、そして合理的期待経済学派だとかマネタリズム、サプライサイド・エコノミックスが登場してくると、まるでケインズの経済学は経済学として遅れているのだ、過去のものだと。したがって、合理的期待経済学派の経済学は、経済学のひとつの進歩であると考えていると思います。ですから新しいものに飛びつく」―
―「混迷する近代経済学の課題」を書いた経済学者、宇沢弘文はかつてアメリカ経済学会を牽引する経済学者だった。シカゴ大学教授として学会の注目を集める論文を次々と発表し、「新古典派経済学」と称される経済学の世界的リーダーとなっていた。(中略)
宇沢は短い論考のなかで、自分を含めた世界の経済学者たちが信奉してきたものに疑いの目を向けている。とりわけ、「価値判断」をめぐる問題に彼はこだわった。
(中略)事実、「平等」「公正」といった概念を無視し、「効率」のみを形式論的な枠組みのなかで論じるようになったことで、この学問は「価値判断からの自由」を標榜できるようになった。けれども、それは見せかけにすぎないのではないか。そう宇沢は指摘した。「価値判断からの自由」は、「効率性のみを追求し、公正、平等性を無視する」という態度の表明にほかならないからだ。そして、効率性のみ追求する知識人が現実の政治と固く結びついて影響力を行使するとき、取り返しのつかない災いが起きる。―

過去の本ブログ経済学に何ができるか」「政治はなぜ嫌われるのか(2)『政治はなぜ嫌われるのか 民主主義の取り戻し方』」を参照していただきたい。1980年代から知的潮流として力を得た理論群が、今、実際の政治・社会で大活躍しているようである。この現実に対する警鐘にも耳を傾けたい。

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